先日、千鳥ヶ淵で、見渡す限り何とも美しい満開の桜を愛でながら、サイクルボートを必死に漕いでいたときに、ふと、「あ~、これだ。これぞまさに究極の贅沢!」と強烈に感じた。
そしてふと思い出した。
同じような感覚を得た時。
それは、2年前に福島県の裏磐梯の温泉&スキー旅行に行った際、雪化粧をまとった大自然の中の露天風呂に入ったとき。
「あ~、これぞまさに究極の贅沢」って。
そう考えると、ママンにとっての究極の贅沢って実はそんなにたいしたものではない、と(笑)。
自然を感じること。雄大なもしくは言葉にできないほど美しい自然を感じること。そしてその一部になること。
そんなことであると感じた。
そして、少し種類は異なるけれど、もう一つママンにとっての究極の贅沢をあげるとすると、「自由」であることだと感じる。
私にとって、自由であることは最も欲している状態であり、理想であり、ハッピーな人生を送るためには必要であると感じている。
昔、その昔、私は何でこんなに勉強しているんだろう?
と、とことん考えていたときに、”より多くのことを知り、より多くのスキルを習得し、人生の中で”選択肢”を増やして”自由”になりたいから”、という考えに行きついた。
確かに、学歴が高いほど”選べる”職業も増えるし、”選べる”就職先も増える。
英語ができれば、海外でも自由に動きまわれるという”自由”が手に入るし、就職先や職業の選択肢も増えるし、友達の選択肢(国籍問わず)も増える。
お金を稼いで自立すれば、旅行もより多く行けるし、欲しいものも入手しやすくなるし、美味しいものや文化的体験へのアクセスも容易になる。
もう10年以上も前になるけれど、パリのシャンゼリゼにある人材紹介の会社で働いていたとき、周りに溢れていた裕福な会社や人々の華やかな生活を目の当たりにして、そんなことを考えるようになった。
やはり、「お金がある」という状態は、一般的に「自由」が増える、と言える。
物質的な豊かさによる自由はもちろん、人生における選択肢が増え、より豊かで、自分が理想とする人生を創りやすくなる。
ただ、いつかの投稿で書いたように、お金が増えれば増えるほど、自由とは程遠くなることも大いにあり得るので、必ずしも「お金」=「自由」ではない。
「究極の贅沢」は物質的な「自由」ばかりでなく、精神的な自由にも大きく依存する。
例えば、イスラム文化では、女性は一人で道を歩いてはいけないとか、車を運転してはいけない、夫の許可がないと遊びに行ってはいけない、とか、そういう仕来りの中生きるのは、まさに”不自由”だ。
女性だからこうしなきゃいけないとか、してはいけないとか、母親だからこうするべきだ、とか、そういったことも全て自由を制限するものだと感じている。
それは、社会が決めるものではなくて、本来は自分がこう思うから、こうする!と自分の意思で、決めるものであるように思うけれど、確かに、社会や他人という第三者が決めてくれる方が、従っていればいいだけなので、楽、というのもある。
でも、その代わり、第三者という”誰か”に縛られることになり、やはり”自由”ではない。
そのように考えると、「自由」はママンにとっては究極の贅沢だけど、同時に、多大な「責任」を伴うあり方なんだなと改めて自由であることの重みを感じる。
なので、やはり自由であるためには、精神的にも経済的にも自立している必要があり、なかなか得られるようで得られない、究極の贅沢であるのだ!
歳を重ねるほど、”あるべき”信仰からも益々解放され、益々できることが増え、やはり自由が増えていると日々感じている。
そして自由が増えるほど、人生行きやすくもなるし、益々楽しくなるし、益々豊かになっているとも感じている。
これからも更なる「自由」を求めて、でも同時に大きな「責任」を胸に止めて邁進していきたいと強く感じる日々。
こんなことを考えるなんて、フランスでいう、”La crise de la quarantaine" (ミッドライフクライシス、中年の危機)なのかもしれない(笑)!