サイトアイコン ロンドンの色・パリの味

耐えることは美徳なのか

昨日の通勤電車は凄まじかった。

もう慣れっ子ではあるものの、普段は子供たちを送ってから乗り込むので若干遅めの時間帯となり、混雑のピークは過ぎたかなーという感覚があった。

ところがその日は幸か不幸か夫が子供たちを連れていくとはりきってくれたので、ありがたく私は直接駅に向かった。

駅のホームに着いてまず驚いたのは溢れんばかりの人、人、人。

ここにいる人が皆、すでに乗車率100%を優に超えてホームに入って来る電車にさらに乗り込むのかと思うとぞっとするくらいの人!!

待つこと2分ほど。

パンパンに膨れ上がった電車が到着し、一定数の人が降りる。

そしてホームに溢れていた人々が無表情のまま整然と乗り込む。

 

パリやロンドンでも朝は満員電車での通勤だった。

とは言え、押し合い圧し合い乗り込むときは、何か問題が起こり電車が遅れているときか、もしくはストライキ中で、電車の本数が3本に1本やそれ以下に減らされている時くらいだ。

そもそもあまりに混んでいたら、ホームで待っている人たちは、無理やり乗り込もうとせずに電車を見送る。数本見送ることもざらだ。

そしてのんびり出社する。

けれども日本ではいくら電車が3分、4分おきに来ようとも、どれもすし詰め状態なのだ。

待つだけ無駄だ。

なので、覚悟を決めて必死に乗り込むわけだ。

缶詰の中で押しつぶされている人々は、ただただ外圧に抵抗できるすべもなく、力に押し流されて、奥の方へ移動させられ、さらに窮屈になった缶詰の中で息をひそめる。

昨日の電車は正直、極限状態だと感じた。

足の置き場すらなく、半分宙に浮いているような状態。

危険指数、不快指数マックス!

背が高く、健康体である私だから耐えられるけど、小さな人や華奢な人、体が弱い人にとっては相当脅威なのではないかと思われる空間。

会社に行かねばならないので皆どうすることもできなく、必死に不快中の不快を耐え忍び、まるで無言の我慢大会をしているようだ。

あまりの不快に心中はピリピリしていて、実は一触即発状態にあるんじゃないかって思ったりもする。

いや、もしかしたら、あの”押しくらまんじゅう”を朝一の楽しみにしているつわもの(変人?)もいたりして。

とは言え、一見、平静を装っているけれど、実は毎朝の通勤電車は静かなる戦場だと感じた。

自分対周りの全ての人(敵)。

そして、耐え忍ぶ自分自身との戦い。

2,30分もすれば解放されることがほとんどなので、どうにか毎日こなしているものの、この究極の不快とストレスからいち早く解放されたいと切に願っている人も多いのではと思う。

そんな”静かなる戦場”で、穏やかに不快感を味わいながら色んなことを考えた(スペースができるとスマホをいじったり本を読んだりしてしまうので、このように究極の混雑で手すら動かせない状態というのは、ひたすら考える時間となり案外いいかもしれない笑)。

そういえば、こんな極限の不快状態や、何か辛いことがある時、日本人は本当によく耐える国民性だとふと思った。

それどころか、耐えるばかりでなく、辛い状況に立ち向かうこと、耐え続けることが美徳ととらえられている節がある。

根性とか忍耐が、楽しむことやポジティブでいることよりも重要視されていて、徳が高いとされている。

儒教や武士道の影響が強いのかもしれない。

確かに、それらは素晴らしい美徳で、強く、深く、立派な人間になるだろうし、私も”ぬる~い”人間より、やはり根性があって、忍耐力があり静かに努力する人を目指してきた。

しかも耐えて耐えて耐え続けたら、何か悟りが開けるという得点があるのかもしれない。

けれども、よくよく考えてみると、果たして耐えることはそんなに美徳なのか?と思えてくる。

満員電車は小さなことなのでまあいいとしても、例えば、パワハラやセクハラ、いじめなど、家庭内暴力等、どう転んでも基本的人権が侵害されているような状況にいる場合は、耐えることは美徳でもなんでもない。

逃げて、環境を変えなければならない。

もちろん判断のタイミングが難しい場合もある。けれども数か月我慢して何も状況が変わらず、今後も変わるような節が見えなければ、周りが変わるのを期待して耐えても何も変わらないのが常なのではと思う。

耐えれば強くなるかもしれないけれど、破壊するかもしれない。

回復できないほどの傷(心・体・魂にも)を負うこともあるかもしれない。

また、耐えている間に、機会コストを失うかもしれない(もし耐えることをやめて、他の方法、環境を探していたら、もっと別の素晴らしい機会に巡り合っていたかもしれないこと)。

日本では、耐えること、我慢することの美徳が行き過ぎていて、それで苦しんでいる人が多いように見えてならない。

理不尽であることにも耐えることが美徳で、耐えられなかったり、耐えることをやめたりすると根性無しという風に思われる。

ある意味とても危険であると感じる。

もっと私たち日本人は、楽しいこと、快適なこと、ポジティブなこと、前向きなこと、建設的なことにエネルギーを注いでもいいんじゃないかって思う。

我慢することや耐えることはやめて、もっと主体的に前に進んで、主張してもいいんじゃないかって思う。

時代的にも、耐え忍ぶ時代はもうとっくに過ぎ去っている。

我慢が積もると必ずどこかで歪が生じる。爆発するかもしれないし、病に侵されるかもしれないし、心がギスギスして不機嫌女(男)になる可能性が高い。

だから、おかしいと感じた場合は環境を変える、苦しいと思ったら、目標を達成する別の方法はないか考え、必要であれば立ち向かう、どうしようもなかったらやめる(逃げる)、そして別の何かを探す。

今ある耐えている状況に執着する必要は全くないし、世の中はもっと広く、可能性は限りない。

ただのありふれた朝の通勤電車という舞台の中で、人混みに押しつぶされ耐えながらそんなことを考えた。

そうか、耐えると感覚や頭が研ぎ澄まされてくるのかもしれない(笑)。

やはり美徳なのか。

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