サイトアイコン ロンドンの色・パリの味

子供たちから見る日本とフランスの違い

6年前。

小さなぼくちを妊娠したタイミングで、パリからロンドンへの引っ越しが決まり、ママンは安心・安全の日本で里帰り出産をすることにしたので、小さなぼくちんは日本で出産しました。

陣痛が始まり産院に行った頃は、まだ空気は肌寒く冬が抜けていないな~、という感じでしたが、出産を経て5日間ほど極楽入院生活を満喫し(笑)退院した時、”春の空気になってる~!”と感じたものでした。

空気の感じ、そして野外の雰囲気が全く違う!

もちろん季節は三寒四温を繰り返し動いて移り変わっていくわけですが、ある時を境に、一気に空気が入れ替わる!というのはあるのかなーなんて感じています。

それがちょうど3月10日から15日くらいの間。

毎年そんな風に感じます。

まるで、その5日間、病院という隔離された場所で非日常生活を送っている間に、外の世界がすっかり変わってしまった!みたいな、当時はそんな風に感じられたものでした。

実際、子供が二人に増えて、家に赤ちゃんを連れ帰った時点で、確かに自分を取り囲む世界はすっかり変わったわけですが!

そんなことを思い出す今日この頃。

まだコートはなかなか手放せないですが、空気はすっかり春になりました!

我が家の前に立つ桜の木のつぼみも一気に膨らんでいます。

楽しみだな~💛

もうすぐ一年のうちで一番大好きな季節が到来です。

さて、今日は、最近2週間、フランス学校の休み中に地元の日本の公立学校に通っていたお兄ちんの何気ない言葉から考えさせられた、日本とフランスの教育の違いについて書いてみようと思います。

そう、お兄ちんは、通常はフランス学校に通っているのですが、休みの度に近所の公立小学校に通っています。

先日、帰宅するなり、

”ママ、ぼくやっと違いがわかった。フランス学校の子たちと日本の子たちって、何か違うってずっと思ってたんだけど、何だろう?ってよくわからなかったけど、今日気が付いた!”

”何が違うの?日本の子たちの方がやさしいって言ってたよね?!”

”それはそうなんだけど、日本の子たちは、みんなが何でもそれなりにできるんだよね。それで、フランス学校の子たちは、人によって、すごいできない子もいるし、すごいできる子もいる”。

”そっか、そんなことに気がついたんだね!”

と、そんな会話を交わしました。心の中では、”それはまさに大人の社会を反映してるよ~!”、なんて思っていましたが、そこはまあ触れずにおいときました。

そう、まさに日本の社会とフランスの社会(おそらく西洋諸国と言ってしまって問題ないかと思うけど)の大きな違いはそこ。

日本は全ての人がすべてにおいてそれなりにできる。つまり教育レベルの平均点は他国に比べて高いと感じる。

一方で、フランスでは、非識字率も数%と一定数存在する一方で、エリート層もそれなりに多く存在する。つまり、教育レベルにバラつきがある、大きな格差がある、というわけだ。

こういった社会の状況がすでに10歳の子供たちのレベルで見て取れるとは、教育の影響力というのは大きいなあと改めて感じさせられたエピソードでした。

日本はやはり何事も丁寧であるように思う。

教育も丁寧にするから、時間をかけるし、繰り返し身に着くまで覚えさせるし、足並み揃えてみんなで同じゴールを目指す。そして、一般的にスローな子どもに合わせた教育をしている。

けれども、フランスでは、できない子への落第は躊躇せず、それでもできない場合は自己責任、一方で、できる子の飛び級も盛んに行われ、エリート養成には抜け目ない。

なので、確かに”エリート“のレベルは半端ないように見える。

世界を舞台にした時に、当然のように世界をリードできるような人材を養成するようなエンジニア学校やビジネススクールが多く存在し、実際、世界のエリートを多く輩出している。

私は日本の学校教育を受けてきた。

大学はそれなりに一流大学とされるようなところに入ったけれど、世界という舞台に出た途端、自分がいかに無知・無能で世界という場所で戦っていく武器が身についていないか、ということに気がついた。

どんなに日本で”良い”大学を出ても、どんなに英語ができても、”意見を言えない”、”クリティカルシンキングができない”、”うまく論理的に表現できない”、”ディベートができない”、”self-promotion(自分を売ること)”ができない日本人は、やはり世界をリードすることは非常に困難である、と感じたものでした。

これは特に、パリにあるアメリカのビジネススクールでMBAを履修していた時に強く感じていたこと。

ぎゃんぎゃん意見ばっかり言っていて空気を乱したりしないし、控えめでまじめなところが美徳よね~?!なんて(笑)自分自身を励まさないとやっていけないと感じるほど、全く勝ち目がない、これでは潰される!と痛感する日々でした。

特にアメリカ人をはじめとし、西洋人はやはり強し!他人の目を恐れずに、どんどん主張します。そして、主張したもん勝ちみたいなところがあるし、主張しないと”なめられる”。そんな状況です。

もちろん、英語ネイティブではないので、言葉の壁もあります。でも、それ以上に文化の壁というのは非常に大きく、しかも小さなころから刷り込まれているものなので、変えたくても簡単には変えられない部分でもあるので、西洋人と同じ土俵で戦うのは酷だなーと感じたものでした。 そしてアジア人と話すとほっとする、みたいな。

とは言え、授業から離れておしゃべるする内容は万国共通だなーなんて思うし、国籍関係なくみんなでジョークを言って笑いあったり、ファッションや恋愛話で盛り上がったり、ゴシップしてみたり、とそんな部分では、”みんなおんなじ人間なんだなー”って改めて実感するわけなんですが。。。

そんなわけで、ビジネススクールでは楽しさと同時に、悔しい思いや劣等感といったあらゆる感情を味わったわけですが、残念ながら(笑)、世界の中心はやはりアメリカをはじめとした西洋諸国。

となると、”世界”という舞台に立ったときに有利に働くのは、そういった”世界”スタンダードに近い教育を受けて来た人、となるのも必然かもしれない、と思ったものでした。

息子とのちょっとした会話から、過去のそんな経験が回想されました。

学校教育が子供に与える影響はあまりにも大きい。

とは言え、正直、フランスやその他西洋諸国の教育の方がいいという風に思っているわけではありません。日本の学校教育を受けた子供たちの基礎学力はとても高いし、協調性や規律が圧倒的にあるのは日本の子供たち。

となると、子供が将来、どこで、どんなを生活をしたいのか、どんな仕事をしたいのか、どんな人生を送りたいのか、によってそれに適した教育を与えるのが理想なのかもしれないけれど、未来は誰にもわからない。なので、こうした逆算的な発想はあまりに現実離れしている。

では結局どうしたらいいのか?

正直、わからない。

けれども、とにかく今与えられた環境(教育)で精一杯得られるものを得るしかないのかなと思う。

なるようになる!"Que sera, sera~, whatever will be will be♪"です。

Happy weekend!

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