最近つくづく感じること。
歳を重ねれば重ねるほど、色んな出会いや経験、読んだ本、人と話したこと・聞いたこと等を通して、”人生”について、”生きること”について、”幸せ”について色んなことがわかって来て、日に日に平穏な心で生きていくことができるようになって来ている気がする。
”わかって”来ていると書いてしまったけれど、人生の意味はきっといつまでもわかりはしないのかもしれない。けれども、”人生”に対する自分なりの解釈というか、指針というか、”あ~、こういうことなのかー”という気付き、そしてそこから得られる自分のスタンスが日に日に固まって来るような気がして、何だか心が”楽”になる感覚がある。
例えば、自分にとって何が幸せなのか、ということに気が付く。何が理想なのか、どこを目指しているのか、どんなライフスタイルを送りたいのか、自分にとって生きるとはどういうことなのか、そんなことが少しずつ明確になってくる感覚。
最近ふと感じるのは、究極の幸せを感じる瞬間は、必ず他者と一緒にいるとき、ということ。
例えば、子供たちに読み聞かせをしながら、彼らが眠りに落ちるのを隣で感じるとき。夫の腕枕で眠りに落ちる時。友達と一緒にテーブルを囲み、美味しいものを食べたり飲んだりしながらおしゃべりしているとき。。。
あ~、幸せ~!!って、あたたかなでも強烈な感覚を覚えるときがある。
そう考えると、やっぱり人間って一人じゃ生きていけないし、人と関わっているからこそ温かな感覚を得ることができる社会的生き物なんだなーと思う。
確かに、一人のときに、あ~、幸せ!と感じることもあるけれど、それは、普段人との繋がりがあることが前提であるからこそのもの。
また、旅行をして美しい景色を見た時や、パラダイスのような青い海の白い砂浜のようなところに行って感じるような究極な幸せ感も、まさに、幸せ!なんだけど、これは瞬間的な、最高潮を味わう極楽気分♡で、心あたたまる深い幸せ感とはまた種類が違うのかなーと思う。
そしてまた仕事やスポーツか何かで勝利した時に感じるような究極の幸せは、アドレナリンが放出するような興奮感とか達成感のような感覚で、ストレスの裏側にあるような、これまた別の種類の幸せ感なのかなーと。
このように考えると、日々の生活を安定したあたたかい気持ちで送るには、家族や夫婦、子供や友達、同僚、もしくは地域社会との関係といった、身近な人間関係が良好であることが一番大切なことなのではないかと感じる。
忙しい日常生活では特に意識することはなくとも、そこにある継続的な深い絆が心の安定とあたたかな幸福感をふとした場面で呼び起こすのではないか、と。
そして良好な人間関係こそが、平穏な生活を送るための基盤ともなり、同時に、生きるためのエネルギーとなり活動するためのモチベーションとなったりもするのかなーと思った。
まさに、存在するだけでありがたい、という感覚。別に何をしてくれなくてもいい、何をしているから好き、とかありがたいのではなく、その人の存在自体がありがたい。そんな人間関係があるからこそ、生きていることに意味を見出せるのかなーって。
かといって、”あたたかな”場所で何もせず平穏に暮らしていれば幸せかといったら、成長願望や社会貢献願望(これも人間の根本に備わっている欲求なんじゃないかと思う)があるのでそうともいかない。
日々の学びと成長、そして自分が社会に対して役に立っているという感覚が得られないと、”満たされない”という感覚が付きまとう。
自分というリソースを存分に使って、世の中に貢献することによって人に喜ばれ、自分に喜ぶことができ、健全なかたちで人生を全うできるのではないかと思う。
その上で更に、熱中できる趣味があったり、旅行ができたり、とにかく”好き”という純粋な気持ちのみに突き動かされて活動できる何かがあったら、それこそ理想の”幸せ”であり、人生に満たされたものを感じられるんだろうなーと。
なので、最近のママンの発見は(心理学者マズロー(マズローの欲求段階)に対抗!と思ったけど、よく考えたらちょっと種類が違った(笑)。。。)、
1.良好な人間関係(愛し愛されるということ)
2.社会貢献 (役に立っているという感覚。仕事、家事育児、ボランティア、地域活動、、、)
3.自己実現(好きなことをする、趣味など。成長願望を満たす活動もここなのかな)
といった風に、まず1が満たされ、2が満たされ、そして3が満たされたら、まさにバランスのとれた「幸せ」な人生、そして目指すはそれなのかなーと思ったのでした。
何だか支離滅裂で抽象的で、何を言いたかったのかよくわらなくなってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ママンの「幸福論」でした。