30代を振り返る

この前、久々に写真の整理をしていたら、30代に入りたての頃、まだお兄ちんが赤ちゃんだった頃の写真がゴロゴロ出て来た。

10年前、2011年の今頃、31歳の私は、パリのアパルトマンで2歳半になるお兄ちんと夫と3人で毎日奮闘しながらも楽しく暮らしていた。

お兄ちんは、幸運にも家から少し離れた(1キロ程の距離)保育園にフルタイム(月~金の朝7時半から夕方18時まで)で入ることができ、私は彼が2歳になった頃から、職場にフルタイムで復帰していた。

当時はシャンゼリゼという素晴らしい立地にある人事コンサル(主に人材紹介&採用)の会社に勤めていて、毎朝、メトロの駅を出て、凱旋門を拝んでから出社するのが日課だった。

当時の私には何とも刺激的な職場で、仕事を通してあらゆるシニアレベルのビジネスマンやビジネスウーマンたちと交流する機会をいただいた。

そんな世界に後押しされ、自分も彼らと同等の世界にいき、彼らと同等に扱ってもらいたい(若いアジア人女子ではなく)という気持ちが圧倒的に強まり、それに伴い、”MBA"という選択肢が頭に浮かび始めた頃。

今思えばあまりにシンプルな思考回路だが、当時の私にはそれがまず、彼らの世界に近づく一番の近道に思えたのだ。

当時の強い直観に従い、アメリカ系のビジネススクールに入学。仕事を細々と続けながらも、傍ら学業に専念することになった。

過去のブログで数回に渡って記事を投稿したけれど、これは自分にとっては非常に辛い時期でもあった。

子育て、仕事(半分以下にしてもらっていたが)、そしてひっきりなしに押し寄せて来る課題の嵐。

しかも全て英語。リーディングや論文の嵐。。。

どうして自分をそこまで追い込み、ストレスを溜め苦しむ必要があるのか。。。

誰も私に頼んだわけではない。自分でどうして敢えてこんなに苦しい道を選ぶのか。。。

久々に触れる英語での勉学を楽しむ余裕は微塵もなく、とにかく始めの数か月は苦しくて苦しくて仕方がなかった。

そのころは、目に映るすべての景色がグレーに見え、カフェや街中で楽しそうにしている人たちを見て、羨ましくてしかたなかった。

そんな風にして始まった私の30代。

写真を見ながら、その頃の胸が押しつぶされるような苦しさとストレス、それでも戦いに挑んでいる緊張感に満ちた気持ちが鮮明に思い出されてくる。

それでも、3,4か月たった頃から、徐々に授業やクラスメイトたちとの時間を楽しむ余裕が出て来て、気付けばとても”好き”になっていた学校生活。

フランコジャポネ(フランスと日本)だけの世界に窮屈さを感じていた私がまさに求めていた、“グローバル”な環境、”グローバル”な人々との”グローバル”な会話が手に入ったわけだ。

1年目の終わりには授業の一環で3週間ほどニューヨークのキャンパスで勉強する機会も得た。

若いうちに一度は行っておきたかったニューヨークという街。

子供と夫をパリに残しての滞在は複雑な気持ちではあったけど(今思えば、よくそんな決断&実行したものだ!と感心する笑)やはり刺激的でとても貴重な体験となった。

そして、ひたすら研究と論文に追われた2年目。途中で小さなぼくちんを妊娠し、論文まみれの妊娠生活。出産。ロンドンへの引っ越し。

あらゆるライフイベントと変化の中、どうにか論文提出を終え、晴れて修士号取得。

ロンドンにいるからには!とシティーでの金融機関での仕事経験が欲しい!と思い、幸運にもゲット。

当時まだ1歳にも満たなかった小さなぼくちんをお世話してくれるベビーシッターを見つけ、晴れてロンドンでの仕事の日々が始まる。34歳。

ロンドンでも愉快な職場仲間に恵まれ、大変ながらも楽しい仕事生活を送っていた。

とは言え、あまりにチャイルドケアにかかる金額が高額なロンドン。

これだけ一生懸命働いても、自分の給料の大半はベビーシッターさんの給料となってしまうという現実。

お蔭様で仕事というとても貴重な経験を積ませてもらっているので仕方ない!何年後になるかはわからないけど、そのうちこの経験は大きなリターンとなるはず!と自分に言い聞かせるものの、割とひもじい思いをすることも多々あったロンドン生活。

どんなにイギリス人がフレンドリーとは言え、夫も私も外国人という孤独感。

英語がネイティブではない、イギリス事情があまりわからないというハンディキャップ、そして社会的弱者感。

夫も私も現地採用なので、何かあっても会社が守ってくれるわけでもなければ、家族もいないので、頼れる人もいない。

第三国で生活するということのとてつもない自由感とエキサイティングな感じと同時に、とてつもない孤独感と難しさを身をもって体感した日々でもあった。

ロンドン滞在3年が過ぎた頃、いい加減、この先の人生の生活拠点をどこにするかを決めてそこに向かってアクションを起こす必要があると夫と話していた頃。

Brexitの国民投票があり、追うようにフィリピン人ナニーさんのビザの問題が生じ、これはもうこの国にはいられないというサインなのではと強く感じ、ある意味必要に迫られてついに夫が日本やアジア圏での仕事の求人を探し始めた。

幸運にも、知り合いの紹介で、ポンポンと話が進み、まさかの、夢にまでみた日本での仕事をゲットすることができた。

実は同時にシンガポールでの駐在の話が進みそうでもあったのだけど、当時の私たちはとにかく日本で生活がしたい(第三国での生活の難しさに少し疲れていたのかもしれない)という気持ちが強かったので、オファーに対しては即答!

こうして私たちの日本行(一時帰国ではない本帰国!)が決まったのだった。

それが37歳になった頃。

日本に来てからまず感じたのは、“長い戦いが終わった。。。”ということ。

2004年からトータル12年過ごした欧州。

もちろん好きでフランスに渡り、好きで滞在し、選んで家族でイギリスに渡った。

とは言え、外国で暮らすことはやはりある意味“戦い”なのだ。

自分の世界の開拓、そして自分自身の開拓。常に120%アンテナを張り、意識を集中して生活しているのだ。

“わからない”という不安の中、できるだけわかろうと常に神経が過敏に稼働しているのだ。

刺激的であることは間違いない。

自国にいたら巡り合えないような人々(日本人も含め)に出会えることも間違いない。

最高に楽しくて最高に素晴らしい思い出が作れることも間違いない。

あらゆるお土産(語学のスキルや経験値というお土産)が得られるのも間違いない。

けれども、自国にいて普通に生活しているよりある種の苦しみは多く、辛い思いもするし、努力やストレスを要することも多い。

自国にいるとき以上に“自分”というものに向き合うことにもなる。

そういう全てのことを総括して、私にとっては“戦い”の日々だったのだ。

それが日本への本帰国とともに終わったのだ。

一気に、長年こわばっていた、張り詰めていた筋肉が緩んだことをヒシヒシと感じた。

自国にいたら別の意味での“戦い”は常にある。

けれども、30代前半から半ばにかけての“戦い”に比べたら、大分のほほんとしていて、半分平和ボケしているくらいになっている(笑)。

そんな私の30代。

とにかく直観に従って、猪突猛進に突っ走っていたように思う。

大きなビジョン(ビジネスマンの仲間入りする、とか、シティで働く、とか、日本に家族で住むとか)を持って夢見ながらも、とにかく一生懸命日々をこなしていたように思う。

子供のいる30代女性の多くは、もしかしたら人生のほぼすべてが“子育て”で子供中心な人生になるのかもしれない。けれども今こうして振り返ってみると、私の場合は、自分のビジョンとそれに向かってやるべきことが中心にあり、その合間に子供がいる、みたいな状態だった。

別に子供を放っておいていたわけではない。

子供のことは愛おしくて仕方ないし、どんなに勉強やら仕事やらでストレスがあっても、子供には癒し癒されていたし、やるべきことはきちんとしてきたと思っている(確かに教育面では割と手抜きではあると反省するが)。

“子供は人生の全てではなく、一部である”

というスタンスはフランスで学んだ。

そう、フランスママンたちにとっては子供、子育ては自分の人生の一部に過ぎないのだ。

もちろん超大切な一部ではあるのだが、夫や自分の家族、友達、そして自分自身のことも自分の人生では大切なことなのだ。

私はそのスタンスが自分にはすとんと落ちた。

子供に依存しすぎたり、自分の人生=子供、というのは私には違う、と。

子供は一人の自立した人間であり、自分の所有物でもなければ、自分の支配下でもないし、依存し、されるものでもない。

こうして、30代を通して、違ったカルチャーで、あらゆる価値観を目の当たりにし、今の私が形成され、今の家族の在り方、そしてライフスタイルがある。

色んな違ったやり方を通して、自分にとって、そして家族にとって一番心地の良い在り方に徐々に近づいてきているのかもしれない。

とは言え、やはり”動”、”動”、”動”であった30代ではとても多くのエネルギーを使い過ぎたので、40代はもう少し落ち着いた“静”の時間を堪能していこうと改めて思う。

書き出したら止まらなくなってしまった!いつも長くですみません!今日もありがとうございます💛

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