このトピックについては何度か書いてみようと思ったり、友人から是非書いてみて!と奨励していただいたりしていたものの、実はいまだに書くに至っていなかったことには理由がある。
何かと言うと、実はママン、それほどバイリンガル・トリリンガル教育に力を入れていなかったので、そんな私にはこのトピックで書く権利はないと思っていたから。
実は今でもそれほど力を入れているわけではない。
通訳・翻訳業、言語学者など言葉のプロフェッショナルになりたい場合は、やはり徹底的に学習・習得する必要がある。けれどもそうではない場合、言葉はコミュニケーションの手段であり、意思疎通ができればよいのであり、必ずしも”完璧”にできる必要はないと思っている。
もちろん母国語というのはそれなりに完璧にできていることが期待されている。また、確かに今日のグローバル化した世の中では、英語はある意味、すべての世界人の言葉となってきているので、とても重要だし、英語ができることによって世界がぐんと広がるのは間違いない。英語は世界中で勉強されているので、英語圏の人だけではなく、世界中の人とコミュニケーションがとれる可能性が広がるばかりか、英語ができると、アクセスできる情報量が圧倒的に増える。というのは世の中に出回っている映画、ニュース、書籍、文献、記事など英語のものが圧倒的に多いから。そしてまた、世の中の多くの主要ビジネスは英語で行われている。
となると、英語ができるとやはり得なわけだ。いや、得どころか、これからのご時世、英語の重要性はますます高まるだろうと予想できる。
というわけで、英語の重要性は否定できない。
ただ母国語が二つある場合、要はママン家のように両親が二つの異なる言語を母国語とする場合は少し複雑だ。
確かに自然に二つの言語及び文化が自然に入ってくる環境ではあるし、ある程度の会話力は自然に身につけることができるかもしれない。また、やはり両親どちらにとっても自国の言葉や文化は子供に覚えて欲しいと思うのは当然のこと。そして家族とのコミュニケーションにも言葉はやはり欠かせない。
けれども自分の子供を見ていて感じるのは、彼らが言語を一番覚えるのは学校という組織の中でだということ。家で習得できる語学力というのには限界がある。学校という社会の中で、先生の言葉、教科書の言葉、それから友達とのやりとりの中で、子供達は日々学ぶ。また言語として定着させるにはやはり、耳から入った言葉だけでなく、読み書きをきちんと学習する必要があると感じている。
なので子供にとっては、学校で習っている言葉が第一言語となるのが自然な流れだと思う。別の言語を家で使っている場合、その言語も聞いてわかる程度のレベルにはなると思う。けれども、多くの場合は、そのうち学校での言語が優勢となり、家のみで使っているもう一つの言語は徐々に面倒なものとなり、必要性を感じなくなり、そのうち使うことすらなくなってくるんじゃないかと思う。となると、やはり”自然”にバイリンガルやトリリンガルとなることはできない。
第二の言語を定着させるには、読み書きの学習や会話をする機会を別途、設けることが必須条件となる。しかもその言語を使える言葉として定着させるには、かなりの時間を費やす必要がある。
では一体どこからその時間を捻出するのか、というのが大きな課題となる。というのは、与えられた時間というのは、皆1日24時間で平等だ。なので、その中で、第一言語オンリーの人たちが休んでいたり、遊んでいたり、寝ていたり、何か習い事をしていたりする時間に、母国語が二つある人は、第二言語の学習をしなければならないことになる。
となると、ビジネス的発想でいうと、Opportunity costについて考えなければならない。何かというと、もし、そのこと以外のことに時間を費やしていた場合は、一体何が得られたか。要は言語の学習に使った時間によって何が失われたか(例えば、第一言語オンリーの人たちは、第二言語ありの人たちが語学学習に費やしている時間に、ピアノを習っていたかもしれないし、近所の仲間と遊んでいたかもしれない、など)、その場合の得られなかったもののコストとはどれほどのものなのか、ということ。
お兄ちんはロンドンにいた頃、毎週土曜日の午前中はチームでサッカーの練習をしていた。土曜日の朝と言えば、日本語の補習校があったり塾がある時間だ。お兄ちんはそれを諦めて(もちろん彼の中では日本語の勉強は選択肢にも入っていなかった(涙))大好きな地元の友達と大好きなサッカーの練習に励んでいた。なので当然のことながら、日本語は家でママンが使っている以外、全く学習の機会がなかった。というわけで、聞くことは大抵理解できても、そのうち返事は英語で返ってくるのが常となっていた。けれども、土曜日のサッカーは本人にとってとても好きで大切な時間だったので、そこを削って無理矢理補習校に連れて行こうとは思っていなかったし、サッカーというスポーツを通じて、よき仲間や友達がたくさんでき、自信もつき、チームワークの精神も学んだ。これは当時の彼にとって非常に重要であり、貴重な時間及び体験であったと思っている。
また、会社の中で働いていて感じたことは、やはり仕事で成功するにはチームワークの精神、コミュニケーション能力、それから意外にも趣味(勉強や仕事外の活動)が実はビジネスにおいても重要であるということ。語学力がいかに高いかではなく、いかに他人やチームとうまくやっていけるか、何か自信を持ってengageしているものがある、話せるネタがある人なのかどうか(そういった共通の趣味を通して人やビジネスが繋がるケースが多い)、ということが重要なポイントとなっているように感じていた。それから悲しいことに、英語のような、世界で多くの人が第二外国語として使っている言葉は、まあそれなりのレベルで通用するけれど、”完璧”であることが求められるビジネスの世界では、英語以外の言葉が結構なレベルでできたとしても(例えば日本人で日本語が母国語だけれども、結構なレベルのイタリア語もできる)それをスキルとしてはそれほど重宝されないような印象も受ける。
もちろん、言葉の勉強は仕事のためだけではないのは当然だけれども、上記の諸々を考慮すると、やはり語学習得に費やした時間のOpportunity costという概念も考えてみる価値はあるのかな、と思ってしまうのです。
もちろん、子供自身が進んで学びたいと思っているのであればそれは大歓迎すべきことであるし、可能な限りそれができる環境を提供してあげることも大切だと思う。
子供が自分の言語を学んでくれることは、親にとってこの上ない喜びであるし、ママン自身、日本に移住したいと思っていた理由のひとつに、子供に自国の文化と言語を学んで欲しいと思っていたからというのも大きい。
けれどもただただがむしゃらにバイリンガルやトリリンガルになることを夢見て親が子供に押し付けるかたちとなってしまう場合は、一旦、違った角度から状況を眺めてみるのもいいかもしれない、と思う。
ママン家の場合、お兄ちんはいまだに英語が第一言語、次仏語そして日本語、という順番。小さなぼくちんは現在、日本語、英語、そして仏語、という順番。もちろん小さなぼくちんに関しては、数ヶ月前までは、ダントツ英語、次日本語少し、そして仏語若干、という具合であった。お兄ちんの場合は、ロンドンにいた頃は、英語ダントツ、仏語会話レベル、そして少し日本語、という風であった。
ちなみに兄弟の会話は今でもお兄ちんにとって優位な英語で行われている。
現在、日本に住みながらフランス系の学校に通うお兄ちん。そして先週から純日本な幼稚園に通う小さなぼくちん。
1年後の彼らは一体何語で会話をしているんだろうか。
子供は”今”を生きる生き物。過去や未来ではなく、今ここに集中している。なので過去の言葉はどんどん忘れ、今の言葉を思いっきり吸収する。今、必要な、生きている言葉を必死に覚える。けれども彼らの今に必要性がなかったり、現実味がないとなるとやはり覚えるのは難しい。
となるとやはり数ヶ月後には彼らの会話は日本語にシフトするんじゃないかと思っている。
どちらにしろ、数カ国語が日常的に使われている環境にいる子供たちは、すべてを同じくらい定着させようとなると相当な時間と努力が必要だと思う。子供の適応性や興味なども見つつ、決められた時間の中で、友達と過ごす時間も大切にしながら、取捨選択をしていくのがいいのだろうと感じる。
最後に、これまで会った人たちの中で、最も高いレベルのバイリンガル(二つの言語レベルがネイティブレベル)であった人たちは、大抵、日本で日本人両親のもとインターナショナルスクールに通っていたか、もしくは国際結婚のもと、片方の親の国で暮らしながら、もう片方の親の国の言葉を母国語とする学校に通う、といったパターンだったかと思う。多分それが一番効率がよく、比較的自然に言葉を習得できる方法なんだと思われる。
とはいえ、裏を返してみるとアイデンティティーは?とか文化的背景はどうなるの?とか様々な懸念点があることも否めない。やはり二つを同時進行というのは簡単ではない!
う〜、長い!いつもに増して長くなってしまいました。おつきあいいただきどうもありがとう❤️