前回から随分と日が空いてしまいましたが、今日は”日本は女性にとって暮らしにくいのか”の続々編を書いてみようと思います。
さて、1回目は”女性はこうあるべきだ”という暗黙の了解が女性に不自由を感じさせる、といった内容。2回目は”ワークライフバランスのとりにくさ。働き過ぎる男性と家事代行サービスの不足が女性を生きにくくしているということ。そして今回は”男性中心”な社会が女性を生きにくくしている、との仮説。
”男性中心社会”。これに関しては、現在過渡期であり、管理職の女性の割合を増やすということを目標に掲げ、多くの会社や政界で”男女平等”に向けて動いている。また、実際、昭和時代と比較すると、よい意味で男性もだいぶソフトになってきているし、”イクメン”だって増えているように見える。なので、”男性中心社会”は変わらなきゃいけない点、として認識されているし、実際に変わろうとしている点ではある。
けれども、現実問題、仕事の世界では、まだまだ男性優位であることは否めない。男性陣は女性を無意識的に”アシスタント”、男性の”サポート的役割”を果たす人たち、というように認識し、扱っているように見える。また、女性はそのように期待されていると感じるし、それ以上のことはむしろ期待されていないようにさえ感じていた。
もちろんこれは部署や会社によって全然違うのだとは思うけれど、基本的に管理職の大部分が男性の会社では、やはりどこか、女性は一歩引いていて欲しい、女性はサポートに徹してくれればいい、というような雰囲気を感じることが多いのではないかと思う。また、男性と対等なステータスや関係を求める女性をどこか、”怖い”とか”女じゃない”というように見ているように感じることもある。
また、社会の中心となって表立って社会を動かしている男性たちが、彼らの価値観で勝手に女性の幸せを定義しているようにも感じる。”女性の幸せは結婚して子供を産むこと”と。
現代の女性は男性が思っている以上に”できる”し、アクティブだし、自立している。男性たちはもしかしてそれを十分わかっているけれど、認めてしまうの怖いから、”女性はこうあるべき”と、昭和な価値観を”押し付ける”ことによって安心している(安心したい)のかもしれない。
現代は女性の幸せの定義は男性のそれと同じく、様々だ。
欧州では、”女性のあるべき姿”という概念があまりない。いや、もしかしたら欧州でもあるのかもしれないけれど、少なくともそんなことはあまり感じさせない。そして男性陣も女性のあり方を画一的なものとしようともしていないし、そもそも女性のあり方に関して干渉しない。
なので、そんな欧州ではやはり女性はもっと自由でいられる、ように感じる。
”できる女”には益々”できる”こと期待するし、”できる女”だとしても、もちろん”女性”として扱われる。なので、できる女も恋愛対象にもなるし、尊敬の対象にもなる。
”できる女”だって、結婚できるし、子供も産めるし、社会復帰した後に更にキャリアアップだってできるのだ。男性たちはそんな女性を”怖い”のではなく、尊敬のまなざしで眺めるのだ。
もちろん、男性と女性は生物学的に違う生き物なので、向き・不向きもあるし、完全に平等になることはできないと思う。けれども、それぞれができることややりたいことはある程度自由に選択できるべきだと思うし、尊重されるべきであると思うのです。
”女”だから、とかそういう理由だけで、諦めなければならないのは違う気がする。
10数年、比較的男女平等な欧州で暮らし、日本に戻って来た今、日本の社会は女性というスキル、人財を活かしきれていないと強く感じる。
これだけ多くの女性が高等教育(大学なり専門学校なり)を受けているにも関わらず結婚して子供を産んだら、主婦?!これだけ多くの時間とお金をかけて来て学んだことは一体何かの役に立っているのだろうか?と感じざるを得ない。
多くの高学歴、そしてキャリアのある女性が日本を出て海外で生活していることにも、こうした理由が隠されているように思う。
しかも、これって日本の将来を考えると”リスク”だ。
もっと自立した女性が暮らしやすい国になるといいなあと思う。そしてもっと男性が家庭的になるといいなあと思う。そのためには、会社がもっと従業員を開放してあげるといいな、と思う。プライベートライフを会社も個人ももっと尊重できるようになるといいな、と思う。
そんな風になったら、女性だけでなく、男性にとっても、もっと暮らしやすくハッピーな国になるんじゃないかと思うのです。
国というのは個の集合帯。個がハッピーになればおのずと国がハッピーになる。
国としてのまとまりや国力が先なのではなく、まずは個人の幸あり、という思想にもう少し近寄ってもいいんじゃないかと思うのでありました。